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第3回/スコラカントラム音楽院でのレッスン記

さて、今日はレッスン日記の第3回ですね。
非常に、筆を執る手が重いです。

皆さんの好きな音楽は、どんな音楽でしょうか。
私は、たまという1980年代から活動しているグループの音楽を最も好んでいます。
不思議なのは、彼らの作品の詞は全て記憶しているにも関わらず、彼らの音楽を聴いていて、何か映像が見えることは殆ど、もしくは全くありません。
単純に心が楽しくなるという感覚でしょうか。

一方、クラシック音楽については、フランスの印象主義音楽はもちろんですし、私にとっては、映像が見えてくるような作品が多いのです。
私がピアノを好んで弾いてきた理由は、偏に、この映像が見えるからだと思います。
映像は本当に自由で、高い空から向日葵畑の中で手を振っている少女を見下ろしていたこともあれば、雪山で仲間と丸太を運んだり、恋人の乗っている機関車が今まさに走り出していくのを泣きながら鉄格子にしがみついて別れの言葉を叫んでいたこともあります。その度に本当に泣いたり笑ったり苦しんだり、とにかく忙しいのです。
つまり耳で聴いているというよりは、目で、頭で、映像を見ているのだと思います。

フランスに来て、真の音楽家というのは本当に耳だけで音楽に向き合っているということが分かりました。
それは耳で陶器の置物を、耳で刺繍を編んでいくような作業です。
置物は真っ白で傷一つなく、刺繍はよどみなくほつれなく、だからこそ私達はそれをスクリーンにして、自分の心の中の映像を投影することが出来るのです。

芸術には、それ自体が力や意味を持っている物のほかにも、鑑賞者の心にあるものこそを引き出してくれるスクリーンの役割、あるいは鑑賞者の心に一筋の光を当てることで意識下にある映像を露出する性質を持つものとが存在することが分かりました。

今師事している先生がそうした映像の誘発を意図しているかどうかは分かりませんが、ヘレニズム彫刻のように表面が滑らかで傷が無く且つ全体としてはダイナミクスに富む演奏を耳だけで作っていくことに信念を持っていらっしゃるのは確かです。
つまり私は演奏中に頭で映像を見るのではなく、全神経を耳に注いで、余計な凹凸が無いか、不要な途切れが無いかを常に観察し、耳で彫刻を創造していかなくてはならないのです。

これは私にとっては非常に辛く困難な作業と言えます。
そもそも私は音楽家というよりも物書きとしての気質を多分に持っている上に、好きな音楽はたまや手回しオルガンなど、聴覚だけで良し悪しを判断する性質のものではありませんし、性格も主張や発信が多く、受け止めてくれる人に感謝せねばならない立場の人間です。とてもとても、人の心に光を当てるような、良い意味で無色のスクリーンになれるような素質や切符を持っている人間ではありません。

演奏というのは弾く人によって異なる波動を持っています。CDや音源で聴く時は映像を見ることが多い私でも、ホールなどで直接演奏を聴く時には、その波動に当てられて体を支配されるような感覚になります。演奏を通して、奏者の過去や記憶や価値観、目に見えることもなく、もしかすれば普段は意識されることもない何かが命を持って動きだし、私が一部に持っているものと共鳴するのです。
私はこの現象をとても大切に思っています。なぜなら、そのような戦慄体験をさせてくれる場が、私にとってこの世に他に、ピアノ以外に存在しないからです。

音楽家ならば、耳だけで完全なる美を享受したいと願うのかもしれません。
それは私が、映像や物語や波動の中に、人の生き様や感情のドラマを見出だし、自己と地続きに繋がりたいと渇望しているように。
音楽や美に対する価値観には既に方向性や一貫性がある私ですが、せっかく留学したのですから、音楽院での先生との関わりも、私自身の可能性を刺激し伸ばしてくれるものの一つと捉え、自分なりに取り組んでみようと思っています。

レッスン日記4はこちら

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Posted by 美月


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